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私的百合論考 準備稿

序文:


 百合という言葉は多くの意味で語られている為、我々の意志疎通を困難にしている。
 本稿ではいくつかの要素に分け、筆者なりの考察を行う事とする。

 ただし、作品のジャンル分けは生物の分類等において行われているものより
 遥かに曖昧であって、厳密さに欠けるのが常だという事を念頭に置いて頂きたい。

 何故なら、本来は分割不可能な所まで分割し数え上げる必要があるが、
 それを行うには膨大な時間と予算が必要である為。

 例として挙げた作品はアニメがほとんどであるが、これは漫画やゲームよりも周知されているからである。
 少女小説や漫画の歴史、ジェンダー論などについては、基本的に考察の外に置く。

 さて、食事や運動は我々の肉体を、学問は精神を、物語は魂を養うものである。

 以下に挙げた先行研究によって、百合については十分に語られているように思うが、
 自己投影について重きを置いた事で、本稿は独自のものとなっただろう。
 また、本稿はかなり客観性を欠いているが、それを含めて研究するのは専門家の仕事である。

 以下、作品の内容には触れないように配慮した。



先行研究:


 百合論がわからなくなる
 http://kaoriha.org/yuriron.htm

 現代百合の基礎知識
 http://kaoriha.org/kisotisiki.htm

 百合党結党に向けまた一歩 百合チャートVer.1.5を公開
 http://d.hatena.ne.jp/Choir_Tempest/20090812#1250098482

 百合座標作成
 http://d.hatena.ne.jp/Choir_Tempest/20090927

 百合の分類法(1)-もっとも基本的な四分類
 http://yuritopia.blog.jp/archives/10397785.html

 百合の分類法(2)-百合作品分類グリッド
 http://yuritopia.blog.jp/archives/10537908.html

 百合における分類法の研究~心理学の視点から
 http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=437465

 私たちは、ヒロインの少女になりたいんだ。百合の「主観」と「客観」
 http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20071228/1198770819


 やさしいユング心理学【第七章 ペルソナとアニマ・アニムス】
 http://starpalatina.sakura.ne.jp/kouza/07.html

 やさしいユング心理学【第八章 自己と個性化の過程】
 http://starpalatina.sakura.ne.jp/kouza/08.html

 家族という檻~「個性化の過程」の物語としての「ゼノギアス」
 http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/xeno2.html
 ※ 百合は含まないが、個性化を考察する上で有用。
 当然だが、本作をプレイした事が無ければ読む意味は無い。


 評論ウテナ 作品にうかがえる女性の自立・解放
 http://www.yo.rim.or.jp/~sagi/aniheya/utena/hyouron.html

 ウテナはなぜ王子様になれなかったのか?
 http://homepage1.nifty.com/risako/utena.html

 少女革命ウテナ「天使アンドロギュヌス」の歌詞
 http://j-lyric.net/artist/a0523dc/l01c102.html
 ※ ウテナ達の物語を、個性化として捉えることを象徴していると思われる。

 はるしにゃんの幾原邦彦論 vol.1~3
 http://kai-you.net/series/52
 ※個性化やファルシ等に着目して頂きたい。

 ここまで『少女革命ウテナ』に関して、象徴的な歌詞と三つの先行研究を挙げたが、
 この作品が筆者の魂を養うことが無かったのは、諸々の描写があまりに露骨であった為。


 アンドロギュヌスとヘルマフロディトス
 http://www2.plala.or.jp/Rosarium/purple/essay/herma.htm
 ※ 心理学における個性化は、神話で唱えられているような
 元は一つであった者の分離が思想的裏付けとなっている。


 なぜ生き物は(人間など)無性生殖から有性生殖へ進化したのですか?
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13119716413

 同性間で子供を作ることは可能か
 http://news.livedoor.com/article/detail/8652797/
 ※ この記事は短いものだが、挿絵が未来を予感させるものであった為、ここに挙げておく。



例外:


 まず、女性どうしという前提についてだが、性転換は含むか含まないか。
 当然だが、女装は含まないものとする。
 もっと広く捉えれば、男性性をどこまで残すかという点が挙げられる。

 TSを含まないという意見は、精神が男性のままであるというのが、よく言われる点である。
 『かしまし ~ガール・ミーツ・ガール~』等が挙げられる。
 この作品は円盤を購入する程に筆者は気に入っているが、百合ではないと考えている。

 男性として育てられた女性、性自認が男性であると考える女性等についても、
 上述と似たような事態を引き起こす。これら例外的な事例は考察の外に置く。

 両性愛者・全性愛者の女性も除外する。
 と言うのも、ここは性別論やジェンダー論を扱う場ではないからである。
 (性別を、生物学的見地から扱うのが性別論であり、社会学的見地から扱うのがジェンダー論とされている)


 さて、男性性をどこまで残すかという点に関してだが、
 性別としての男性が存在しなくても、なお男性性は残るという点に注意が必要である。

 男性における、自己投影の媒体としての男性性については後述する。



自己投影:


 次に、自己投影をする場合としない場合について。

 誤解が多い言葉である為、拙稿
ソルフェージュ 百合ゲームにおける自己投影を参照。

 自己投影が求められるのは、物語を楽しむ事の目的として、
 最終的にカタルシスを得るというのが、最大のものだからである。
 これに関しては、拙稿百合作品媒体小論における「脚本」項を参照。

 登場人物の相関図にのみ関心を向ける“相関図消費”(関係性萌え)の場合は、
 観察者・観測者・傍観者であっても、個人的には問題無いと思われる。

 物語があってもそれを見ない者、あるいは、
 物語自体がほとんど存在していない作品(日常系作品)を嗜好する者は
 相関図消費を行っていると考えられる。

 言い方は良くないが、“美少女動物園”という言葉にあるように、
 精神的な面での活動が行われていない場合は、
 視聴者は動物を眺めるような心境で観察しているのだと推測される。

 日常系やコメディ系を見る時は、筆者も基本的に観察者に徹している。

 『けいおん!』、『ゆるゆり』、『きんいろモザイク』、『のんのんびより』、『ご注文はうさぎですか?』、『ひなろじ』等。

 とは言えけいおんに関しては終盤に卒業があった為、筆者はそこに物語性を見出し、
 主に梓に自己投影し、心を揺さぶられた。そこで初めて円盤の購入を決めたのであった。

 物語があってそれを見る者は、“物語消費”を行う事になる。
 この時、筆者は物語を当事者の観点から見ている。
 主に主人公に自己投影をして、物語世界の一人となっているのである。

 物語においてカタルシスを得る為には、
 感情移入や自己投影は不可欠だと筆者は考えている。

 男性における女性的部分とされているアニマに着目することで、
 男性であっても、女性に対して間接的な自己投影が可能になる。

 百合が物語に深く関わるもので、関係性の構築や描出が特に丁寧なものは、
 『マリア様がみてる』、『Strawberry Panic』、『神無月の巫女』、『ささめきこと』等。
 漫画や小説では無数に存在する。



アニマ:


 アニマに着目しない場合について。

 現実の男性が、女性キャラに自己投影や感情移入をする時、
 その象徴として形態的な面が与えられる場合は、男性のソレが女性に与えられることが多い。
 ソレを模した道具等も含まれる。これは女性が男性を求めているものとして、
 百合好き一般に斥けられる事が多く、筆者もまたその考えに同意している。
 男装の麗人などに関しては、筆者は受け容れられるが、推奨したいとまでは思わない。

 現実の男性が、女性キャラに自己投影や感情移入をする時、
 その象徴として行動的な面が与えられる場合は、英雄的行為が女性に与えられることが多い。
 英雄的というのは最善の例であって、男性的な長所ならおよそこれに含まれる。
 より低次の場合は、男性的視点からの肉体的欲求や、男性の短所として現れることもある。
 英雄色を好むというのとはまた別の問題。

 女体化した武将や軍人は、男性の勇敢さと責任に女性の慈愛を併せ持つ事が多く、
 それは男性性と女性性における一種の統合である。こうしたキャラは男女問わず人気があるように思う。
 『恋姫†無双』、『ストライクウィッチーズ』等。

 一般的な戦闘美少女とは異なり、彼女達は常に戦いに備え訓練し、戦う為の積極的な動機が十分にある。
 キャラにもよるが、理を弁え義に篤く礼を尊ぶ、こういった優れた男性性を多く有するのが特徴である。

 男性の短所を持った存在として、筆者の男性的部分の自己投影対象となった例としては、
 『かしまし ~ガール・ミーツ・ガール~』における、主人公・はずむの優柔不断な気質が挙げられる。

 男性が一般に優柔不断な傾向にあるのは、男性は遥か先の未来まで考慮に入れて生きている為である。
 そうした面が良い方向に働いた為に、我々の祖先は国家を築き上げたのであるが、
 それが悪い方向に働くと、途方も無い夢想の果てに生涯を無為に閉じる事になるのである。

 現実主義である女性性との理想的な統合がなされた場合、男性は地に足を着けたまま、
 未来を手にすることが出来ると筆者は考えている。

 いわゆるバトル百合において。

 基本的に戦いは男性的であって、その行為は男性が自己投影する為の媒体になる。

 カップルの一方が他方を守る場合は、男性の代わりに過ぎないように感じられるが、
 お互いに守り合おうとする場合、そこに百合的な趣きが生じてくるように思われる。
 強い友情でもある上、相手を守り相手に守られる事は、男性的であり女性的である。

 『星彩のレゾナンス』における鼎と奈岐、
 『よるのないくに』におけるアーナスとリュリーティス、
 『よるのないくに2 ~新月の花嫁~』におけるアルーシェとルーエンハイド
 『戦姫絶唱シンフォギア』における響と未来など

 男性性と女性性の統合は、人間的完成に近づくことの一つであり、
 筆者は無意識の内に、守り守られる関係に惹かれていたのかも知れない。

 ちなみに、『悪魔のリドル』は一方が他方を守る方向に偏っている為、筆者のアニマは感応しなかった。

 それと、単に共闘するのはまた別の問題である。



恋愛:


 次に、恋愛的な面を含むか含まないかについて。

 含むとしたら、そこに葛藤や背徳的な趣きを求めるかどうか。
 含まないとしたら、同性間の友情や憧れと見なすか、性別以前の愛(情)と見なすか。

 それと、写実的な作品についてだが、これはレズビアンによって描かれる事が多いように思う。
 取材が不要なのがその理由だろう。葛藤や背徳を求める層とは対立しているらしい。

 『百合党結党に向けまた一歩』において、以下のように述べられている。
 “実は、近い位置にいる派閥間も対立が著しい(特に右側のタブー・葛藤派と写実派の対立は百合界最大の火種)”

 写実系として、セクシュアルマイノリティーとしての面が強く出ていた作品として、
 漫画『想いの欠片』がある。このジャンルに筆者は疎い為、軽く扱うだけに留める。

 『百合における分類法の研究』においては、以下のように述べられている。
 “女性の同性愛をテーマにしたノンフィクションドラマは実在の同性愛関係を描いているためレズビアンである。”

 写実系は、フィクションよりもノンフィクションの側に位置するものである。

 また、『現代百合の基礎知識』においては、以下のように述べられている。
 “レズビアンがレズビアンとして書いた女同士の恋愛小説は、百合ではありません。”

 これらの観点は筆者の立ち位置に近く、写実系は概ね
レズビアン作品と呼称したい。

 筆者が本サイトでレズゲームという呼称を用いたのは一度切りだが、
 それは、性愛的な部分が前面に押し出されている一部の作品に対してのものであり、
 写実系を指している訳ではない。また、レズが現実のレズビアンを示している訳でもない。

 異端である事や少数派である事をスティグマ視し、(ここでは烙印の意)
 物語の小道具として扱われる事を快く思っていない者も見受けられる。

 アドベンチャーゲーム『屋上の百合霊さん』を巡る論争が挙げられる。

 おそらくは創作と現実の境界で、彼ら彼女らは揺れ続けているのだろう。

 必ずしも現実の基準では創作物を測ることは出来ないと、筆者は考える。
 例えば、デフォルメされたキャラクターデザインを見て、
 (現実の基準で)骨格がおかしいと否定するのは滑稽である。

 「百合霊さん」においては、以下のセリフが印象的。
 “「もちろん、百合はフィクションです! フィクションだからおもしろいんです!」”

 筆者は、この意見に賛同させて頂く。

 恋愛的な面を含む場合について、葛藤や背徳的な面を重んじる場合は、
 社会(周囲)との接点や個人的な性的指向についての面が深く描かれる傾向にある。
 広く捉えれば、将来への不安という形で現れることが多い。
 耽美系の作品は、葛藤があり背徳的な雰囲気を持つことが多いように思われる。

 葛藤や性的指向に関しては、『ささめきこと』、『GIRL FRIENDS』、
 その他数え切れない程多くの漫画等で見られる通りである。
 ゲームでは『FLOWERS』、『つい・ゆり』、『屋上の百合霊さん』等。

 血の繋がりの無い姉妹では、家族愛と恋愛的な面が混ざる事になる。
 実姉妹では、当然家族的な関係が中心であり、一般的に恋愛的な面は少ない。
 あるとしてもコメディとして描かれているのがほとんどだろう。こちらは葛藤や背徳的な面はほぼ無い。

 前者はそれを隠している場合にネタバレとなる為、具体的な作品名は挙げない。
 後者は『Candy Boy』等。『けいおん!』にも若干そういった面があった。
 この点で『ヴァルキリードライヴ ビクニ』はかなり突き抜けていた。漫画『える・えるシスター』も同様である。
 『つい・ゆり』は実姉妹での恋愛をコンセプトに据えていたが、物語性はあまり高くない。

 恋愛的な面を含む場合について、葛藤や背徳的な面を重んじない場合は、
 同性愛が受け入れられている社会を前提(あるいは設定)としていて、
 個人的な性的指向や将来への不安についてはあまり触れないことが多い。

 『白衣性恋愛症候群』や『白衣性愛情依存症』が挙げられる。

 恋愛的な面を含まない場合について、同性間の友情や親愛・敬愛と見なす場合は、
 それぞれ友人関係と契約的な姉妹関係について分けられるように思う。

 当然ではあるが、友人関係は、程度の差こそあれ多くの作品に見られる。
 『戦姫絶唱シンフォギア』、『ストライクウィッチーズ』、『ゆるゆり』、
 『きんいろモザイク』、『のんのんびより』、『ご注文はうさぎですか?』、『帰宅部活動記録』、
 『ビビッドレッド・オペレーション』、『スイートプリキュア』等。枚挙に暇が無い。

 契約的な姉妹関係は、『マリア様がみてる』、『恋姫†無双』、『緋弾のアリアAA』等。
 契約的な友人関係に、『FLOWERS』がある。こちらは恋愛関係に至る。

 恋愛的な面を含まない場合について、性別以前の愛(情)と見なす場合は、
 同性や異性による区分よりも遡る(さかのぼる)ことになる。
 つまり、女性どうしの愛ではなく、人間どうしの愛と見なせる。

 これは、男性性と女性性とが未分化な状態へと回帰する事になる。
 この視点では人間×人間となるので、必ずしも百合には限定されない。

 好きになった相手が、たまたま同性だったというのはこれに含まれるが、
 それが女性同士であるなら百合だと、基本的に筆者は見なしている。

 話を少し現実に移そう。

 人にもよるが、現実の女性同性愛者は、相手の女性に、
 あなたの性別に関わらずに好きになったのだと言われるよりは、
 あなたが女性であったからこそ好きになったのだ、という風に言われるのを好むらしい。

 性は自己のアイデンティティーに含まれるが故、
 より個人としての本質を尊重する上で、そこに向き合うのが正しいのだろう。



肉体:


 続けて、肉体的な面を含むかどうかについて。

 異性との交わりによる純潔の喪失に関しては、
 白百合の花が純潔の象徴とされている以上、個人的には認めることは出来ない。

 現実の男性が物語を楽しむ上で問題となるのは、
 劇中における相手の男性を、自然と競争相手のように認識してしまう可能性があるという点。
 こうなっては物語を純粋に楽しめなくなってしまう。 これに関しては「主人公」の項で扱う。

 男性が女性に対し、肉欲より上の欲求、精神的な欲求を抱く事というのは、
 ある種の騎士道精神であり、百合を愛好する男性に良く見られる特徴だと考える。
 (この場合の百合は、日常系などではなく、物語性の高いものを指す)

 そうした観点からすると、自身の肉体から離れ、純粋に精神的な対象として女性に向き合うには、
 男性の肉体との結び付きが女性にあってはならない、と筆者は考える。
 何故なら、精神は肉体の影響を受けるものだからである。

 女性どうしの場合、どういった場合に純潔を失ったと見なすのかは
 意見が分かれよう。これに関しては考察の外に置く。

 ADVゲームにおいて、個人的にカップリングは固定が望ましいが、筆者は以下のように見なしている。
 特定の組み合わせのみが、その物語世界における現実であり、他はあり得た可能性の一つに過ぎない。

 さて、精神的な純潔と、肉体的な純潔に分けて考えるなら、
 やはり、初恋かつ処女であるものだけが最も純粋であるように思える。

 現実でこれを見出すのは、多くの場合において無理があるが、
 物語には理想が欠かせないと考える。

 肉体的な面での交わりの是非について。

 これは動物でも有している触覚による快楽(享楽)である為、
 低次の愛と見なされる場合もあるだろう。

 筆者個人の意見としては、多くの良い意味で精神的に固く結び付いた二人の場合は、
 肉体的に結び付くことも認められると考えている。
 何故なら、魂は精神から、精神は肉体から影響を受けるものであるが、
 こうした者達の場合は最早、魂が肉体の奴隷となることは無いからである。



主人公:


 アニマを養うだけなら、そもそも男女の関係において、
 女性の方に自己投影すればいいのではないか、という意見に関して。

 人は自分に近い方の存在に自己投影する傾向にある為、
 男性は自然と男性の方に自己投影してしまい、男性におけるアニマの発達に寄与する事は少ない。

 例えるなら、異国の地で、同郷の者に出会った時の喜びを思い出して頂きたい。
 見ず知らずの他者であっても、思わず共感してしまうものであろう。

 しかしまた、同性に対しては競争や同性忌避の意識が出てしまい、
 純粋に投影することが出来なくなるという点も無視出来ない。

 女性主人公が男性と恋愛関係に至る場合。

 構造上、主人公の側に自己投影するように仕向けられる事になるが、
 男性の方が近い存在である為、男性の側にも引っ張られる事になる。

 この時、女性の側に立つと、男性を相手に恋愛する事になるので、
 筆者の多くを占める男性的部分は反発の声を上げる。

 何故なら、筆者は同性愛者ではないからである。(少なくとも肉体的な面においては)

 ならば、筆者の女性的部分を女性に自己投影して、
 女性と恋愛する事はどうなのかという問題が生じる。

 その場合は、筆者は女性でない以上、女性どうしの恋愛関係はフィクションであり、
 空想の産物として楽しむことが出来るのである。
 つまり、現実の人間としての性と、自己投影した際における性は別物という考え。

 下部の補稿一における、「考察」、「読者」、「男性キャラ」の項を参照。

 こうして個人的にではあるが、一人の男性の立場から見た百合に関して考察を行ったのは、
 物語を見てカタルシスを得るには、自己投影や感情移入が不可欠であるとの考えを示す為である。

 また、「マリみて」の卒業イベントにおいて、来場者の多くが男性であったのを直接目にした為でもある。

 自己投影や感情移入をより広く考察する為、簡易的な演技論を後日に追記するかもしれない。
 百合における男性の役割に関しては、先行研究に目を通して頂きたい。
 どれが特に参考になるかは後日に。また余力があれば自ら考察したい。



結語:


 さて、以上によって百合と呼ばれる関係における、
 私的観点による分類はなされたものとする。

 読者諸賢が自らの百合を考察する上で、本稿が何らかの助けとなれば幸いである。





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 これらの図は修正中につき注意。また、記載のアドレスは、当サイトに移転前のブログのものになっています。



補稿一:

 『ユリイカ』2014年12月号を読み、色々と思う所があったので追記。
 また、一部の表現は伏せ字とさせて頂く。


「白百合」:


 象徴としての白百合に関しては、『ユリイカ』2014年12月号 P,44~48にある通り。
 キリスト教やローマ神話、ラテン文学にルーツが見られる。 以下敬称略。

 吉屋信子の『花物語』の一編「白百合」は、単純化すれば、
 生殖という代償行動に拠らない、永遠への希求を描いているように思える。
 社会的に要請される性別の役割から自由でありたい、というような点も伺える。

 そこでは、男性性は全くと言っていい程に無く、それ故に筆者には破滅的に思える。
 と言うのも、一対という関係そのものが、本作では(おそらく)異性愛的なものとして斥けられている為である。
 何らかの変革が成される事も無く、故にカタルシスにも至らない。

 自分で直接読んだわけではない為、読了後に追記する予定。
 あまり筆者の糧になるものは無さそうに思える為、先延ばしになりそうだが。

 エッセイの中から、性性に関わるものを抜粋。
 これだけでは論理不明瞭だろうから、注釈を付けておこう。
 ただし解釈が間違っている可能性がある為、その点には注意。


 “生殖能力を男性性からとりもどして我がものにしつつその力を
 生命の再生産とは異なる位相に転じること、官能の主体を複数形(多数性)にすること。”

  ⇒ “生命の再生産とは異なる位相”とは、宗教が保証しているものと同様の<永遠>である。
   “官能の主体”とは、性的な意味合いは持たない、思慕や憧れを抱く者の事である。
   つまり、「白百合」という作品における、少女達の事である。その想いを受ける客体が、「先生」である。


 “「病(シック)」の特徴は、短期間に、より多数の者の間に共有される、
 伝染性の病としての欲望であり官能であることだ。「病(シック)」は、
 雌雄を必要とする生殖とは異なり、分裂と転移、同調によって増殖し、強度を増す。”

  ⇒ 集団として女性がパニックを起こしたりする事が現に見られる。
   女性特有の強い共感など、その心理構造を研究すれば見えてくるだろう。


 “先生と少女たち、とりわけ「私」との間は、言葉をなかだちにして深まるというのではない。
 主客の対話や、自己と他者の分節化やらの言葉のはたらきと力によらない、
 同情や共感のふるえによって、彼女たちは思いを深める。”

  ⇒ ここで言う“言葉”は詩的感性ではなく、論理的な理性であり、現実を切り取るものである。
   それは男性性であり、“分節化”とは区別することである。物事を区別し、秩序立てることは男性性の徴である。
   同情や共感というのは、理性ではなく、感情や直感によるものであり、それは女性性の徴である。


 “先生と「私」は、最後まで、二人で一対という関係にはならない。”



『マリア様がみてる』:


 以下は、『ユリイカ』2014年12月号 P,39・40より。敬称略。


 “――『マリア様』が百合ジャンルを語るうえで出てくることについて、どう考えてらっしゃいますか。

 今野
   「うん、いいんじゃないかな」と。あの世界が全部「百合だ」というのは違うと思いますが、
  百合といわれることに抵抗はありません。ずっぽり百合のなかに入っているというよりかは、
  百合と言われてもしょうがない要素もあるし、青春や友情というカテゴリに入れられるところもある。
  百合に関していやだという気持ちはぜんぜんなくて、かえって「(百合に)入れてくれてありがとう」という感じですね。
  ただ、百合に期待して読まれて、「ぜんぜん違った」という話にならないかは心配ですが。

 ――「百合文化に大きな影響を与えた」とも言われます。

 今野
   影響を受けたと言われる作品がなにかわからないので、 なんとも答えようがないですね。
  あんまり「百合」を意識して作品を読むことがないんです。

 ――執筆時は、「百合」を意識することはありましたか?

 今野
   いわゆる「薔薇」の対義語としての「百合」は、言葉としては知っていました。
  でも、「百合」にしようとは思わなかったです。百合がなにかはわからないから、 書きたいように書きました。
  ただ、「BLが男の子ばっかりだから、女の子がいっぱいの話がいい」 をスタートにしている作品なので、
  ある意味BLの対極にあるものとして百合に含まれるのはうなずけます。

 ――女子同士のお話を作られるにあたって、なにか作品を読んだりは。

 今野
   それが、実は読んでないんですよ。よく吉屋信子の『花物語』の影響について訊かれますが、
  読んだのは書き始めたあと。 あまりに聞かれるので、読んでみようかなと思って読みました。

 ――今野さんの考える「百合」とはどんなものでしょうか。

 今野
   「答えがあるのかな?」と思っています。漠然と、もやもやーっと、
  「こういうものが百合なのかな」と感じることはありますが、 「これが百合だ!」というのはわからないですね。
  でも『マリア様』が百合だとしたら、そのもやもやは大きいものだと思います。

 ――大きいというのは、どういう意味でしょう?

 今野
   最初は、百合って「女同士の恋愛」のことだと思っていました。
  でも、私の作品は「恋愛」と言われると、ちょっと違う。 だから私の作品が「百合」と言われるのなら、その言葉がさすものはとても大きくなりますよね。

 ――『マリア様』で描かれる関係は、友情や尊敬という言葉でも表されますよね。

 今野  
   友情と言い切るのも、なんとも言えません。あのひとたちの関係ももやもやしている。”  以下略。


 ここまでの抜粋は、百合という概念を今野氏がどう見ているかという点で非常に有益。
 関係性とは、一つに限定され難いものであるというのが解かる。



エスとレズ:


 『屋根裏の二処女』の監修を担った嶽本野ばら氏によると、以下のように解説される。


 “この「エス」なる感情、そして関係をレズビアンと直線で結びつけるのには無理があります。
 無論、「エス」なる感情がレズビアニズムに発展するケースもあったでしょう。
 しかし、基本的に「エス」はもっと頑是無いストイックで、プラトニックな、
 同性であるからこそ成立するピュアな恋愛の理想を根底に持っているのです。
 そしてそれが、たとえ精神的な交流を越境して、スキンシップに至ったとしても、
 そのスキンシップは精神的恋愛のメタファーであり、そこに通常の肉欲を見出すことは間違いなのです。”


 ここで言う“通常の肉欲”とは、異性間のそれだけを意味しているのではなく、
 女性同性愛者が互いに抱く肉欲も含まれると思われる。

 百合作品において、男性向けと思われるサービスカットがあっても、
 女性同性愛者がそれを楽しむことがあるのは、後述する「消費」の項を参照。



少女小説:


 以下は、『ユリイカ』2014年12月号 P,65より。


 “少女小説が少女同士の関わりという物語形式の中に織り込んできたのは、
 外の社会から否応なく規定される規範的な像に従順であることよりも、
 私自身の意志による美学に誠実であることの肯定である。
 直截な表現だが、そこに見いだされる思想をまとめるならばそのようなことになるだろう。
 近年改めて人気を博している中原淳一の作品も、
 少女精神の美しさと誇りを思い出させてくれるものと位置付けられるだろうし、
 表面的な見栄えは大きく違えども昨今の乙女・かわいいカルチャーのなかにも、
 自らの美学を肯定しようとするその精神はうかがえるだろう。
 少女小説が少女同士をアクターとしたその様式的な意匠を通じて体現してきた、
 少女たちの自我への肯定は、形を変化させながら、時を超えて確かに息づいている。”


 筆者は少女小説は「マリみて」しか読まない為、この点は参考になった。
 ただ、極めて大きな枠組みでは、既に普遍的な考察は終えているが。

 「ストパニ」における主人公・渚砂が自由の象徴であったことは、
 多くの比喩や劇中劇でも表されている。彼女を中心に据えて「ストパニ」の考察をいつか行いたい。



考察:


 以下はWikipediaの百合ページ「考察」より抜粋。以下、敬称略。


 “社会学者の熊社会学者の熊田一雄は、
 やおい・ボーイズラブと呼ばれる男性同性愛を扱った作品を好む女性(いわゆる腐女子)は、
 「自身の女性性との葛藤」ゆえにそういった作品を愛好しているのだという分析をもとに、
 それと同様のことが百合ものを好む男性にもいえるのではないか、
 すなわち彼らは「自身の男性性との葛藤」を抱え込んでしまっているがゆえに
 男性という記号からの逃避場所として百合ものを愛好しているのではないかと予測している。
 ここでいう男性性の葛藤とは「女性を一方的・特権的に値踏みする視線の主体」としての男性性であり、
 女性同士の同性愛という作品世界に没入することによって「対等な性」に近づこうとしていると考えられる。
 また、百合を愛好する男性はしばしば作中人物に同一化する気持ちで作品を鑑賞していることから、
 作品外部から作品内部の女性キャラクターに対して
 「一方的に値踏みする視線」を送っているにすぎないわけではないという。

 文学者の長池一美は、百合マンガの全体的な目標は
 少数派の性的指向に焦点を合わせる「強制的な異性愛」からの避難であり、
 社会的に作られた女性性を再考する要素を提供すると同時に、
 既存の女性性を越えたいという女性たちの潜在的な願いを表していると分析している。”


 筆者の個人的なことであるが、男性性に葛藤を覚える事は無いが、
 優れた女性性の不足を感じることはある。空気を読むのが苦手で、
 不文律は文字に起こして配布されるのが望ましいと考えている。



消費:


 以下は、『ユリイカ』2014年12月号 P,91より。女性同性愛者として百合作品を嗜む例として。
 他のページにも、百合レズ論争について見つめる冷静な眼差しが見られる。


 “だからこそ私は今、言いたい。自分の居場所を作るために言いたい。
 私は百合が好きです。私は百合が大好きです。百合ップルと呼んでごめんなさい、
 なんて言わせてごめんなさい。女性同性愛をいつも性的対象として消費される被害者の側に置き、
 そんな差別構造に無自覚である異性愛男性を糾弾するような論を展開すれば私は楽でしょう。
 人を謝らせるだけで済むのだもの。でも私はそれをしません。私だって消費しています。
 新『セーラームーン』の亜美ちゃんの変身シーンでおっぱいのラインが描かれなくなったことを
 嘆いたりしながら、消費し消費されて私は生きています。いわゆるレズビアンに分類される私は、
 百合ップルとして消費される客体であると同時に、百合を消費する主体でもあるのです。
 レズビアンが全員百合好きとは限りませんが、とにかく、百合/レズ、被害者/加害者を
 単純に二項対立で考えるのは怠慢であり、世界はそんなにつまらなくはないわ、
 という意見を主張したうえで、最後に改めてこう言いたいと思います。
 ごめんなさい。好きです。”


 最後の一行は、百合作品を、ということ。

 またしても個人的なことだが、筆者は三次の百合を消費してはいない。
 しかし作品として描かれることで、間接的に現実との関わりが生じ、副次的に消費しているとは言える。
 現実と空想を完全に切り離すことは不可能である故、三次からの影響から逃れることは出来ない。



YURI:


 『ユリイカ』2014年12月号 P,117・119・120。海外における“YURI”について。
 日本人の精神的な土壌についても言及されている。

 “私は新宿二丁目生まれの東京育ちですが、2008年よりニューヨークに住んでいます。
 日本の読者のとらえている「百合」と私が住んでいるアメリカまたは海外での
 「百合(YURI)」の扱いは恐らく多少違うと思います。
 YURIとは、主に漫画やアニメの中での女性同士の恋愛を主にした作品をさして、
 友情からセッ○スまでを含むからです。なのでここでは日本式の意味では百合、
 海外での意味はYURIと表記したいと思います。”(P,117より)


 上と下でポルノの扱いが違うように見えるが、
 YURIに行為が含まれる事と、人気のある理由は別物という事だろう。


 “しかしYURIはYAOI、BLと同列の扱いで、日本の「百合」のプラトニックな要素を
 大いに期待して読む若い子は少ないと思います。漫画やアニメの中で可愛い女の子同士が
 ギリギリ「ポルノ未満」なことをするのを読者が期待して人気があるのだと思います。
 二十一才以上の成人層では、広い意味で「百合っぽい」作品のファンは一定数いると思います。
 でもそれはYURIであって、日本の「百合」のような形の作品は
 特に発展しているようには見受けられません。少なくとも「百合専門」の海外作家さんは知りません。

 これは私が日本を出てから感じた事なのですが、アメリカには「百合」作品が
 創作され発展する土壌が少ないと思います。
 海外の社会から見た時に、「百合」は日本という外国の異文化だからこそ受け入れが
 可能なのであって、海外でおなじ「百合」を描いたら、よほどコンセプトがしっかりとした作品でない
 限り、日本とは違って多様性を重視している社会では百合の世界観そのものが
 排他的・差別的とさえ受け取られかねないかもしれません。
 そもそも一八才未満のセッ○スは両者の同意であってもレ○プ犯罪になる可能性があるため、
 一見すると「子供だらけの世界」に見える日本の漫画やアニメのスタイルでの恋愛模様は
 いかがなものかとも受け取られると思うのです。
 なので海外作家ははっきりと成人とわかる絵柄のキャラクターで海外YURIを創作する事になるわけです。
 私がもしもこの場所で教育を受け育ったら、『リカって感じ!?』は描けなかったと思います。
 曖昧な悩みや不安にフォーカスする事なく女性の恋愛を謳歌する漫画になったと思います。
 なぜなら米国の半分以上の州が同性婚をすでに正式に認め、助けが必要なLGBTQの若者には
 適切なサポートがされ、MANGAやコミック作家は「何故この作品が社会にとって必要なのか」
 というミッションステイトメントを持ち、多様性と新しい才能をボーターレスに牽引するべく
 補助金までが支給されるお国柄だからです。
 一方伝統的な文化を継承する体質の日本では、社会と実際的な連動をせず
 漫画やアニメがそれぞれの世界に引きこもり、それぞれの世界のなかで深く発展していくのは
 百合だけに限らないと思います。行間やコマの間を読む、言わずとも語らずとも、なんとなく
 見えてくる情景や妄想をたしなむ能力を多くの読者が持っているという素晴らしい土壌なのです。
 これは俳句文化などを背景にした繊細な感性の国民性とも関係していると思います。
 私が日本にいた時に感じていた閉鎖性は、その深く発達した
 ガラパゴス的な文化の表裏一体の一面だったのではないかと思うのです。
 そしてその土壌は、多様性を取り入れて発展する事を美徳とし、
 常に目的と手段をはっきりさせる事を好むアメリカのような海外とは相容れない気がするのです。
 だから日本の「百合」をアメリカの土壌に移し替えた時には、YURIというどこか別の花に
変わってしまうのかもしれません。”


 『屋上の百合霊さん』が、アメリカのPCゲームダウンロードプラットフォームSteamにて
 配信される事が決定しているのが、如何に画期的な事であったかが解かる。

 何故なら、百合においてしばしば見られる葛藤を描く事が、上記にあるように、
 海外では差別的・排他的と受け取られかねないからである。

 「百合霊さん」を、プレイすることすらなく非難していた女性同性愛者の方がいたが、
 かような事態を招くと思えば、Steamでの配信は英断であると言っていい。

 『ユリイカ』2014年12月号 P,124~132を読むと更に判るが、
 彼女らにとって、娯楽作品は政治なのだというのが分かる。

 女性同性愛者には、作品を一つの文化、またはフィクションとして楽しむ者と、
 現実のレズビアンが正しく描かれているか、また異性愛規範への反省・自己批判が
 行われているかを最重要視する者に分けられるようだ。

 「補稿二」最下部の差別問題における「要約」項を参照。

 筆者は後者の視点で作品を評した事は無い為、
 「百合霊」さんが後者の側の一部に糾弾された事を残念に思う。



読者:


 百合作品の読者に関する、天野氏の所見。『ユリイカ』2014年12月号 P,95より抜粋。


 “――ファンについてもおうかがいしていきます。天野さんの読者は女性が多い印象があります。
 ご自身はどのように感じていらっしゃるでしょうか。

 天野
   比率としてはほかの作家さんよりは女性ファンが多いかもしれませんが、
  やっぱり男性の方が多いですね。そもそも百合ジャンルの読者は男性が多い。
  でも男性ファンもいろいろだと感じます。

 ――いろいろとは?

 天野
   男子として百合を消費する読者や、百合カップルのあいだに入りたいと思っている読者もいれば、
  女の子の気持ちになって百合に感情移入したり、「できれば女の子に生まれたかった」
  と感じている読者もいる。BL好きのなかには、女であることを受け入れづらくて
  BLにハマる人がいるじゃないですか。あれは男性でもありえると思うんですよ。

 ――なるほど、対称性がありますね。

 天野

   「男らしく」あれというのがつらくて、マッチョイズムが合わない。
  女の子みたいになりたい、という気持ちから百合を求めてくる読者もいると思います。”


 読者の多様さについて語られている。

 筆者は女性に生まれたいとは思っていないが、もし生まれたとしたら、
 優れた女性性のみならず、優れた男性性の獲得をも願ったことだろう。

 昔の事だが、当時における筆者の知人であった女医の卵が、
 勉学に関してだけは割とオラついていたのが懐かしい。

 今にして思えば、男性性が未分化な状態であり、
 男性に卑しい野心を植え付けるよりは、自分でそれを実現しようとしていたのかもしれない。
 (野心を抱くこと自体は、向上心の顕われとして良いことであるが)

 彼女は後に精神科医になったのであるが、当時、
 <勉強してるとたまに叫び出したくならない?>と言われて少し筆者は驚いた。

 詰め込み式の学習では反って脳が退化するように思うことが筆者にはあるが、
 彼女の場合は、少し理解した後に暗記で済ませる傾向があり、当時の私はそこに一抹の不安を覚えたものだった。
 女性の社会進出は、女性の寿命を短くしそうだとも思った。

 個人差の方が大きいとは思うが、論理的な思考は、基本的には男性性に属する。
 女性である彼女が、それを獲得するには多くの困難が付きまとう為、
 そこに葛藤が生じ、自分自身の精神を分析したかったのだろうとも思える。



男性キャラ:


 『ユリイカ』2014年12月号 P,98より。引き続き天野氏の所見。


 “――彼氏に依存している女の子、祥が印象深いです。

 天野
 「男子キャラ問題」が百合にはあると思っているんです。
 男の子キャラをあんまりないがしろにしてもよくないし、たくさん出しても邪魔になる。
 嫌な奴として出すと「百合漫画の男キャラは嫌な奴ばかりだ」という印象を与えるけど、
 かっこいいところを強調すると嫌な読者もいますよね。

 ――祥の彼氏のりゅうくんは、かなり嫌な奴として描かれています。

 天野
 祥の元カレの行動はよくないことですが、大学生なんてこんなもの、
 みんながみんなこうじゃないけど、これくらいのオイタはするものだと思います。
 意外といいところもあるんですよ。でもやっぱり難しかった。
 百合漫画における男子のいい立ち位置を発明したいなという気持ちはありますね。
 なかなかそれを描ける機会はないですけど、いつか挑戦してみて、受け入れられるような男子が書けたらいいなと思います。”


 例えば、『神無月の巫女』における大神ソウマは、筆者の目から見ても
 理想的な男子であり、それ故に少し複雑な思いもある。

 物語というのは基本的に、主人公に自己投影するように作られている。
 であるにも関わらず、男性として優れた長所を数多く持ち合せる彼がいる事で、
 筆者は彼の側にも引っ張られる事になった。

 仮に短所を多く持った存在であれば、同性忌避が働いて、
 自らの中からそれを追い出そうとする為に、そのキャラを厭うだけで良いのだが。

 ネタバレを避ける為、直接的な言及は避けよう。

 姫子と千歌音の結末には胸を震わせられたが、
 ソウマの大きな愛にも筆者は心を打たれたものである。

 仮に千歌音がいなかったら、彼が姫子と結ばれていても個人的に抵抗は全く無い。

 次に『マリア様がみてる』について。

 「マリみて」において、柏木が一見すると飄々とした所がある為、
 また加えて出だしのイメージの悪さから、筆者は斜めに見ていた。
 しかし根は真面目で、良い意味で男気に溢れている為、かなり魅力的だ。

 祥子や瞳子を良く理解し、祐巳に助言を与えるところなども良い。

 原作者である今野緒雪氏が、祐巳と柏木のカップリングを奨励している節が
 あるというのも驚くに足りない。



百合観:


 『ユリイカ』2014年12月号 P98・99より。引き続き天野氏。


 “――難しい問いになると思いますが、天野さんのなかでは百合とは
 どんなものだと考えていらっしゃいますか?

 天野
 そうですね……なにが百合ですかね。女子キャラじゃなくても「百合だな」と感じる
 こともあれば、女子キャラなのに「BLだ」というときもありますよね。
 でも基本は「女子が二人いたら百合」でいいんじゃないですか。
 私は本当になんでも「百合じゃん!」と食いつくタイプで、
 それこそ女子が二人いれば百合だと思います。描くかどうかはちょっと違う観点になりますが。

 ――描き手としてはどのようにお考えですか。

 天野
 描く側でいえば、相手の女の子と肉体関係を持つかどうか、
 そこまで踏み込むかどうかというところですかね。
 それを言うと「それはレズだ」と言われるんですが……。

 ――百合とレズビアンの定義も、よくわからないですよね。

 天野
 私が今まで聞いた中で一番納得した説明は、森島明子先生がおっしゃっていたものですね。
 「レズは一人でいてもレズ。百合は二人いるのを外部から見て決めるもの。
 本人たちがどう思っているかはともかく、外部から見てはじめて百合は百合になる」という。

 ――おお、すごくわかりやすい!”


 上記の発言だが、つまりは当人の性的指向に関わらず、
 他人が想像によってその関係を創造していると言えよう。つまり、百合とは空想の産物である。

 しかし、現実における一部の同性愛者は、この空想的な百合を、
 それはレズビアンではないから百合ではないと言う。

 「補稿二」最下部の差別問題における「要約」項を参照。


 天野
 “百合は本当になんでもアリ。それこそ友情でもいいし、やってもいいし、
 相手のことが嫌いでもムカついていても百合。観測したひとが
 「これは百合だ」と思ったらなんでも百合になるんですよ。
 その理論でいうと、私のキャラクターはレズビアンかもしれないけど、作品は百合ということになるでしょうか。

 ――「百合じゃなくてレズ」と言われることに対しては、どのように感じてらっしゃいますか?

 天野
 怒られているわけではないので、なんとも思わないですね。登場人物がレズビアンだろうか
 レズビアンじゃなかろうが、女子同士のことが描いてあるんだから
 百合でいいんじゃないかなと思っています。”



後記:


 「百合」が何を指し示すのかは、最終的には個人がそれぞれに決めるべきだが、
 大まかな住み分けを行う事が重要だ。

 何故なら、イデオロギー(理念、こうあるべきだという考え)を欠いた場合、
 作り手は自分が求める「百合」を明確に描くことが出来ない上、
 読み手は自分が求める「百合」を手にすることが出来ない。

 そうして究極的には、ジャンルそのものが衰退し消滅してしまうという事にもなりかねない。
 とは言え、その可能性は極めて低いとは思うが。

 意識せずに百合を生み出す者もいるが、それは偶発性に身を委ねる事であり、継続性に欠ける。

 「それもまた百合である」と受け入れることは寛容であり、
 「これこそが百合である」と示すことは責任でもある。

 未分化な慈愛は、節操が無く全てを受け入れやがては霧散する。
 未分化な勇敢さは、傲慢さとなって争いが絶えずやがては滅びる。

 全てが百合であるわけではなく、また一つだけが百合であるわけでもない。
 だが個人の中では、そういった見方があっても良いだろう。

 大事なのは、極端に偏った思想を他者に求めないようにする事だ。

 「百合」という概念の外延(適用範囲)はあまりに広く、
 「百合」を愛好する者にもまた多様性がある。

 それらの複雑な絡み合いを解きほぐし、その違いの一端を提示するのが、本稿の目的であった。
 百合を愛好する者達の意識共有と相互理解に寄与した事であろう。

 今後のより優れた百合研究が待ち望まれる。



補稿二


歴史:


 『ユリイカ』2014年12月号 P101~108では、少女マンガの歴史と系譜とが解説される。

 男女雇用機会均等法などを含めた世情の移ろいと併せて、価値観の変化について語られている.

 こうした事柄は筆者の関心の外にある為、各自で目を通されたい。



解釈:


 『ユリイカ』2014年12月号 P,162~169において行われた、
 少女マンガ研究における日高利泰氏の言説は大変読み易い。
 極めて論理的かつ知的誠実であり、読んでいて非常に心地が良い。

 僅か八ページの間に、百合の抱える多くの問題を見事に総覧している。
 そして、それは決して百合に固有の問題ではないという視点も冷静だ。

 引用と簡単な要約を行う事にする。


 “フィクションであればこそ、良心の呵責なく己の欲望に忠実であることができる、はずだった。
 しかし百合が再び現実に存在するセクシュアリティの問題と結び付いた時、
 われわれは否応なく鑑賞者の立場が持ってしまう暴力性に向き合わざるを得ない。
 安全の・安全な観賞の土台が揺るがされれば、今まで当たり前だと疑いもしなかったものが信じられなくなる。
 もっとも、この種の疾しさは性的マイノリティを主要な構成要素とすることは、
 問題の顕在化しやすい条件ではあるだろうが問題の本質ではない。
 以上のような問題をふまえれば、女性の内面が女性同士の関係において描かれること
 それ自体が特別に意義深いものとみなしうるという立場に素直に賛同することはできない。
 また私の理解力が足りないのか、単に保守的な人間なのか、女性同士でなければならない必然性もあまり理解できない。
 女性同士というシチュエーションでなければ成立しない場面というのは確かに存在するだろう。
 しかしそれが単に一時的な状況や舞台設定に過ぎないのだとすれば、
 既存のジャンルの中のヴァリエーションとして記述できる。
 男性しか登場しないのならいざ知らず、二名以上の女性登場人物が存在すれば
 女性同士の関係は描ける訳で、これを取り出してあえて「百合」と呼ぶかと云われれば、
 大抵の場合そんなことはしない。そうであるにもかかわらず特定の作品がとりたてて
 「百合(的)だ」と云われるからには、そこには何らかの指標があり意味境界が存在しているのだ。
 百合である/百合でないという判別がなされている以上、その事実を無視する訳にはいかない。”


 以上はP,164より。

 この引用文以降、少女マンガと百合はそれほど近いものではない
 との感触を示しつつも親和性・共通要素を列挙している。

 まず、絵柄が似ている事、次に、女性の内面や情感を描いている事。
 しかし少女マンガ出身の百合作家が少ないように思えるという。(観測範囲内で)
 出自としては、BLやポルノ、萌え系の印象の方が強いとのこと。(同上)

 以降では、百合の区別は如何にして行われているように見えるか、という点について。


 “何が指標になるのかは判然としないものの、さしあたり百合(的)だと感じる
 度合いの強弱が尺度になっていることは容易に想像できる。
 しかし、先述の通り私個人の感想ではあるが、
 セクシュアリティの問題にどっぷり突っ込んでいると百合っぽくない、
 端的に云うと重いと感じてしまう。” (P,167)


 こういった思いを抱くのは、筆者も同じである。


 “この軽さというのが百合にとっての必須の要件なのかどうかはよくわからないが、
 軽さが必要だと考える場合にはどこかに百合の上限が設定されることになる。
 上限を設けたくなるのは、おそらくセクシュアルマイノリティの当事者性に対しての
 疾しさゆえである。当事者的な深刻な葛藤を(あえて強い言葉で云うなら)
 単なる妄想の具と一緒にしてよいのか、という戸惑いである。” (P,167・168)


 この点についてだが、やはり「百合霊さん」の問題が挙げられる。

 筆者の考察準備稿「観察者としての百合」でも一部述べた通りだが、
(今は非公開)
 作品における表現をどこまで認めるかというのは、百合だけの問題ではない。
 氏も同様の意見を持っておられる事だろう。

 百合作品における葛藤が、差別的・排他的と受け入れられかねないのは遺憾に思う。


 “もちろん、上限を設ける必要はないという意見もあるだろう。
 女性同士の親密性を描く創作物である点においては同じなのだから
 区別する必要はないのだと云われれば、それはそれで一定の合理性がある。
 ただ、部外者としてはそれがどう感じとられているのかわからないこそ、
 この点に慎重にならざるを得ない。疾しさが免罪符になる訳ではないし、
 その有無が読者にとって何か決定的な違いになる訳でもないのだが、
 何となくひっかるところではある。” (P,168)


 ここに解答を与えるのは容易ではない。
 何故なら、作品が現実に与える影響と、現実が作品に与える影響は
 双方向的であり、人の思想や行動に与える影響は無視出来ないからだ。

 しかしながら、日本においては、先の「YURI」項で引用した通り、


 “伝統的な文化を継承する体質の日本では、社会と実際的な連動をせず漫画やアニメが
 それぞれの世界に引きこもり、それぞれの世界のなかで深く発展していくのは百合だけに限らないと思います。”


 と述べられている。この観点で言うなら、やはり筆者は上限を引き下げる事には反対である。
 表現の規制がどのようなものかは判らないが、現状のままで十分だと考える。

 「百合霊さん」が海外で配信されることは、作品内容を理解した上での決定
 だと考えられる。つまり良い意味での寛容さと言える。

 次は下限について。


 “上限があるなら下限もある。むしろジャンル境界という問題にとっては下限の方がより重大な意味を持つ。
 たとえば少女マンガであれば主要な登場人物は女性である場合が多く、
 作中で女の子同士が仲良くしているというのはある意味当然である。
 そこに百合的なものを読み込むことが可能であるためには、
 単なる仲良し以上の何かを感じさせる描写が必要である。
 恋愛ないし性愛的な意味での好意が表明されている場合はそもそも「読み込み」に該当しない訳だが、
 そうでない場合は一体何が指標になるのだろうか。具体的にヒアリングでも行えば
 その最大公約数的な基準線が把握できるが、一方でどこまで行っても曖昧な領域は残り続けるだろう。
 逆に考えれば、その曖昧さこそが現在的な状況として云われる百合の浸透と拡散を支えている。
 百合である/百合でないという判断の二重化が可能であればこそ、
 本来そうでなかったものに対して百合というタグをつけることでその領土を拡張していけるのだ。
 こうした読み替えや読み込みが可能性を提示してくれるものであり、
 われわれの読書行為の豊かさを体現していることは論をまたない。
 しかし、百合そのものや百合的な読み替えをして異性愛主義への批判である、
 解放であるとして素朴に礼賛する気にもなれない。
 云わんとすることはわかるのだが、それは少女マンガにおいても(そしておそらく他のジャンルにおいても)
 反省ないし自己批判として散々行われてきたことであって、
 百合ジャンル固有の特性であるとまでは云えない。”


 2012年の11月から2014年7月まで刊行された『彩百合』は、
 2014年9月から『L Ladies & Girls Love』となって引き継がれた。

 このシリーズを巡っては、筆者の知る限り争いは起っていない。
 恋愛ないし性愛という判り易い形式であり、加えて男性が関わらないからだろう。



要約:


 定義問題から差別問題への流れを簡単に書き出すと、以下のようになる。

  一, 彼女達自身の在り方ではなく、観測者によって定義される事で百合は成立する ※この百合は創作である 
  二, 観測者は皆、独自の基準を意識的・無意識的に所有している
  三, そこに何らかの共通点は見られるが、決して一様ではない

  四, 観測者には当事者と非当事者が存在する
  五, 当事者とは、物語の登場人物に感情移入した者ではなく、現実の女性同性愛者を指す
  六, 性的マイノリティが百合の主要な構成要素であり、それ故に現実のジェンダー問題が顕在化し易い
  七, 当事者の一部は、百合を異性愛主義への批判、それからの解放と見なす向きがある
  八, 異性愛主義への反省・自己批判を行っていないとして、百合作品を糾弾する者が現れる

 三までは個人の趣味趣向であり、八はもはや政治上の問題である。






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